昭和五十七年二月十八日 朝の御理解

x 御理解第九十四節 「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」


 昨日は吉井の杉さんのお里の北川、て言うておりましたが、お母さんの十年の式年祭が、ま、内々の方ばかりでございましたけれども、それに熊谷さんと秋永先生が参加してここでお祭りがございましたが、もう本当に何とも言えん本当に霊様が喜んでおられるだろう、と感じられるようなお祭りでした。
 r皆さん御承知の方もありましょうが大変何て言うですか、穏やかなお婆ちゃまでしたが、昨日私その事を思ったんですけども、この方達が一番始めの私のファンだったんですね。まあだ私が三井教会で親先生と二人であちらにお話に、秋永先生のお宅で共励会があっておりました。勿論三井教会から参ります。それにまあ特別に皆さんが私の話を聞きたい、というて親先生が帰られた後でもまた席を設けられると言ったような、その芯になっておられる方でした。
 別に華やかな派手な信心はなさいませんでしたけれども、しっとりとしたなかなかいい信心をなさっておられましたが、御神前でその事のお届けをさして頂きました時に頂きましたのは、丁度亡くなられるほんのちょっと前に自分でこさえた、という梅のね、z梅の木を作ってそれに梅の花が一杯ついておる、それが真っ白なんですよ、ね。それを小さい置時計の中をくり貫いて、それを植木鉢にしてそれこそ真心込めて作りましたから、ち言うてから持って来て…久しくあの共励殿に置いとりましたが、それを頂くんです。御心眼に。そしてはあ本当あんな事があったなあと思うて、したらその梅の木、その梅の木じゃないけども梅を芯にして、ま、根締めというですかねえ、に金銭花が見事に生けあげてある。いわゆるお盛花ですね、を頂くんです。ま、その事からが私は思わせて頂いて今日の御理解の真の信者じゃ、と。信心の手篤いのが真の信者、とかと言うそこには真のおかげが伴わないはずはありませんよね。
 その真のおかげ、というのが私はそのお知らせを頂きました梅に金銭花の根締めのそのお花を頂いてはあやっぱり御徳を持っておいでられたなあ、とこういう事です。あと御子息が信心がありませんから結局、杉さんがいつも式年式年にお祭りをなさいます。それに、ま、例えばそうしてお祭りを、いうなら受けなくてもちゃんともう一人立が出けておられる、という感じです、ね。この世でお金がないのは首のない事だと同じ事だというふうに言った人があるそうですが、ね。
 あの世で徳を持って行かなかったらそれこそ、この世でお金がない人のようなもんです。私はもういよいよ信心させてもらい、しかも信心も、真の信心を目指さしてもろうて、ね。いわゆる神様の御信用、神様の御徳を受けて持って行かなければ、あの世にも持って行きこの世にも残る、と言われる、いうなら真の信者と言われる信心をさしてもろうて真の徳を受けて、あの世では誰が構ってくれなくてもどうあっても、なら遺族の者が信心がないからたとえ絶えたに致しましても各々が持って行っておる、いうならばこの世でお金を持っとればそれでまあ幸せのひとつの条件の、大きな条件がそこにあるようなもので、ね。
 あれがある、これがある、というてもなら、この世でお金がなかったら、ま、それこそ首がないのと同じ事だと言われるように、あの世ではいわゆる御徳を持って行かなければ…。その前でしたけれども、これは福岡の原さんが、丁度私は四時の御祈念に立つ、という。もうここ電気消して立とうとしておるところへそれこそまあ、滑り込みのようにしてお参りして見えて、ま、色々と甘な辛なの準備をして、そして原家の霊の四柱位、かなんか書いて霊様のお祭りをして頂きたい、というて参って見えました。
 そういう時に私感じますのは、本当にこの、真とか真心というものがあのう、神様が受けて下さるっていったようなものを感じましたね。一分間ずれておったら、私はもう御神前に出て、なら他の誰かの、他の先生、ま、他の先生方でもいいですけれども、も、何かこう氏子の真、また霊様が待ち望んでおられる何かそういうものが、ひとつになってそういう働きを起こすもんだ、というふうにその時感じたんですけど。
 zその時に私が頂きますのが、「ラムネを飲んでおられる情景」を頂いたんですけれども。ほいで原さんに申しました事でした。例えばね、喉が渇く時にそれこそ水の一杯も、いうならラムネの一本も頂かしてもらう、特になら、ラムネを頂きますと喉の渇きだけじゃない。それこそベスッ、というような気持のよい働きが起こってくるでしょうが、ね。というように今日の霊様は喉の渇いておられるのにラムネを頂かれてそれこそベスッと、胸がすきっとするようなおかげを受けられたんだけれども、ならこれが御霊の血にも肉にもなる。ひれから御霊様達が助かっていかれる、という事にはつながらない。
 ただなら水が欲しいならミスが欲しい。喉が渇いておられる御霊様にラムネを差し上げた、というようなものであった。これからはひとつ月々のまあ四柱の霊様の中心になる霊様に対して、今度御本部に行ったら御霊代のひとつも買わしてもろうて、御霊移しをしてもろうて、自分の家で御霊を大切にしなさい。いうならば合理念でも読んで差し上げて御霊ながらに心が開けていく。心が助かっていく、育っていかれる、なら今日のお祭りは、今日のあんたの真はどういう事か、というと御霊様が喉の渇きを覚えておられた御霊様が、たとえていうなら、あ~おいしかった、というておられるだけではなくて、ベスッとする位なおかげを受けられただけだから、これから血にも肉にも御霊様がなられるようなひとつ手立てを持って合楽理念にお取次頂いて合楽理念に基づいてともども御先祖の御霊様も助かられるようになさるといいですなあ、と言うてまあ申しました事ですけれども。
 そして昨日の御霊のお祭りを、ね、生前、いうならば、やはり真の信心が出けておられたという事になる。いうならば金銭花というのはやはり、ま、お金、という意味であろう。この世でお金がなからねば、ね。それこそ首のないのと同じ事であるように、あの世で徳を持っていなかったら、この世で金のないのと同じような、そういう御霊がどの位多いか、あるか分からない。これは私の最初のファンというふうに申しましたが、そういう私の信心に傾倒される、というだけでも、やはりおかげを受けておられる御霊様でね。ですからたとえ遺族の者が、ならお祭りひとつしてくれなくても、お供え物ひとつしてくれなくても立ち行く御霊だけれども、ね。それに人の真が伴うたのが今日のお祭りだ、と昨日頂いたです。
 人の真、ね。もういうならばお里のお母さんではあるけれども、いうならば不思議な御縁です。あちらは田主丸の常行寺さんの門徒だそうです。そいで杉さんのお姉さんにあたる方が常行寺に嫁行くっとられる。常行寺というのは私のお話の中にいつも出て来ます私の母の爺(池尻作太郎)がもう昔々総代を務めとった。ね。私の爺の話はよくお話しますから聞いて…、もうそれこそ大根の虫も殺さんという、いうならば仏教真宗ですかね、の信心にももう帰依しておった人のあの、いつもシュロの木のあるお寺なんです。というふうに、ま、不思議な縁というのはありがたい不思議なもんだ、と重いますけれどもね。
 そんな事で、まあいうなら仏教では手篤う出けておられましょうけれども、今の仏教でならどんなに手篤う致しましたところで、それが御霊様が助かられねという働きにはまあならない、と思いますね。例えばならお寺さんに病気だからこんな事情だからと言ってお願いに行っても、そんな事は聞き届けて下さらないようにね。ですから霊肉共に、いわゆる人間が助かられるという働きを持っておる宗教を、ま、いうなら生きた宗教という事になりましょうけれども。例えば、なら合楽の場合なんかは先日も肝硬変で助かられた方がある、というのでお参りして見えとるそのバスの中で肝硬変で助かった、という北島さんの事です。ね。
 クラブアンナというクラブをなさっておられる女主人公ですが、その方と会われたんですからね、ねえ。不思議な働きがあるもんですよねえ。それでまあその方から自分ももういよいよ助からんという癌センターに行っとられたが、筈のつがもうそれこそお医者さんがたまがられるように、な、全快のおかげを頂かれて今日健康であゝして日々参拝があっております。その方とその人が会われた。はあ、も、会いに参っなさっなら肝硬変でん那にでんおかげ頂きますよ、ち言うて聞いた、というわけなんですよ、ね。
 昨日もこれはどっかあちらの大城というのがありますね、北野の、から沢山お参りがあります。英治君のお得意さんが一軒導かれて助かった。それからもう皆大城の町から沢山お参りがあるのです。今、それにその熱心に参って見える方の嫁さんの家の里のその妹さんが癌でもう助からんように言われて病院に今おられる、という事を聞いてそれで昨日はお導きして、丁度お祭りの始まるちょっと寸先でしたが、お参りして見えられましたが昨日私、改めて分からせて頂いた事は、あのう病人に大きな心になるように言うて下さいよ、と。もう病人がね、落ち込んでしまったら、いくらどんなに強い祈りを送っても駄目ですね。合楽にお参りしたらやはりそれこそ、合楽の教会では癌センターと言われる位に、癌の人達がお参りが多くて助かっておられます。
 今日お願いをして来たからあなたも助かる事が出ける、とまあお話、だから昨日は二人で遠賀郡の方です。遠賀郡の方までお話に行かれました。ね。そして病人が希望を持つという事、大きな心になるという事、そういう私、これはだから受け心というものがね。例えばもう自分なおかげ頂ききらんという事、落ち込んだら駄目、おかげ頂かれんです。ね。おかげにならんはずはない。親先生のお取次頂いてからのこれなんだ、というようなね、その、確信の信心が出けて来なければやはり神様はおかげ下さろうとしてもおかげには現れてこないです。ね。
 という事を昨日私は、ま、改めてわからせて頂いたんですけれども、と言うように、です。なら、肝硬変であろうが何々癌であろうが、です。ね。氏子の真、今日のような、真の信心を、ね。人の真とこういう事、真をもってすれば神様がおかげをつけとって下さる神様、ね。そういう生きた働きが出けておるのですから、なら霊の世界に行ってもやはりその信心を頂いて行く事によって霊が精進する事によって徳を段々積んで行く事も頂く事も出ける、という事を思います。
 私は今日えらいお話が横道に入ったようにありますけれども、今日はこれは勿論取次者に対する御理解ですけれども、信心の手篤いのが真の信者じゃ、と。なら信心が手篤い、という事はただ毎日毎日何十年間と言うて参ったというだけじゃないごたっでんね。私は昨日、その北川のお婆ちゃんの御霊様の霊祭を奉仕させて頂いて、ね。別になら日参り、夜参りなさったという方ではないですけれども確かに真の篤いお方であった。
 それでなら御霊の世界であってもなら、梅に金銭花の、という事は人間氏子がお金を持っておって不自由しない世界に住んでおるように、おかげを受けておられる。それに娘の、いうなら、人の真とがひとつになって、いよいよ限りない喜びの御霊としてまたその奉仕をされる真をもって奉仕される杉さんがまたおかげを受けられないはずはない、というような私はその、真と真との出合い、というものが、ね、いるんです。
 自分の事だけではない、人の事にでも真をもって願えれる私は信心、又は信奉者にお取立を頂きたい。信心が手篤い、というのは、ただ日参り夜参りが出ける、という事ではなくて、結局、ね。人の真。私は昨日その人の真、というのが非常に何か感じました。だからこの人の真、という事の追求が、まういうならば信心でもありましょうがです。それには勿論なら真のおかげが伴のうてくる。この世で信心の、いわゆる真の信心を頂いて真の徳を頂いて、あの世にも持っていける、ね。
 この世でお金を持っておれば不自由だけはせんですむように、あの世に徳を持っていけば不自由はせんですむ。しかもそれは子に孫に伝わっておって、ね。その、子や孫やらが真を持ってなら御霊の奉仕でもしてくれる事になれば、その真と真が出合ってまた、いよいよ有難いいうならば真が生まれてくるわけであります。ね。真とはまず私、合楽にまずは傾倒する事。どういうところに傾倒するか、というと、ね。合楽ではもう確かに人間が助かる本当の、ま、理念である合楽理念の勉強が出けるという事、ね。そこからならおかげがそれに伴のうてくる、といったような信心していくならば、ね。いうなら合楽理念の実験実証していく事が楽しみの信心こそ私は真の信心と思います、ね。そういう信心をいよいよ身につけて行きたいですね。どうぞ